そう名乗ってから、かれこれ7年くらいが経つ。
当時に比べるとミニマリズムの考えは一般化したように思う。
2015年「ミニマリスト」という言葉は流行語大賞に食い込んだものの、ストイックな彼ら彼女らにはどこか異端な雰囲気を感じる人も少なくなかったようで。
その後いろんな流派が頭角を表すも、ポジティブな意味で根本は似たり寄ったり。「自分にとって心地よい少なさ」を探り、守り、大切にしている。
年末年始は過去を振り返りたくさせる不思議な力がある。
そんなわけで自分にとってのミニマリズムも再定義することにした。
気がついたら所有しているスマートフォンが8台を超えていた。
好きな分野とはいえ、まるでミニマリストの風上にも置けない。それぞれにユニークな機構があり、カメラの方向性も違うからまた厄介な沼なわけで。
とはいえそれだけ沢山あると管理コストが増える。
通信可能な端末がどれで、銀行系のアプリが入っていたものはどれだったか。迷いが生じる。
身を持って感じたが、デジタルな領域は明らかに少ないほうが良い分野だ。
考えても見てほしい。
メモアプリが3つも4つもあったら、どこに何をメモしたかを探すところから始めなければいけない。
普段遣いする決済アプリがたくさんあったら、どのアプリに残高がいくらあったか、総資産はいくらなのかがとても分かりにくくなる。
よほど器用で頭が切れる人を除き、たくさんあるよりも少ないほうが良いのはまさにあきらかだ。
もともと少ないのか、試行錯誤の末に少なくなったので結構意味が異なる。
「それって無駄ですよね?」「やる意味、ある意味ありますか?」
頭ごなしなこの姿勢には気味の悪さを感じる。
色々試してその結果、一時的に物量やタスクが増えたとしよう。
しかし、行動した結果、そのものの良し悪しがわかる。
家でそろばんを叩いているよりも街に繰り出した方が得るコトが多いという最たる例だ。
ぼくの実家はマキシマム中のマキシマムだった。
おそらく自分の所有物は軽く5000個を超えていた。なお、そのうちの3000個は同人誌である。
ものの定位置を決めるなんて概念はなく、家を出る前にはパンパンのクローゼットあるいは部屋に散らばった洋服のどれに袖を通すか慌ただしく考え、たくさんあるバッグの中からハンドクリームを探し、ごちゃごちゃな部屋のどこかにある鍵を探す。
今思うとゾッとするが、この経験があるからこそ少ないことの快適さが見を染みてわかる。
ガジェットも様々な端末を試した上で、自分にとっての最適解がわかってきた。
行動の結果、適量を見つける プロセスこそが重要 だったりする。